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市川簡易裁判所 昭和33年(ろ)28号 判決 1962年12月08日

本籍 千葉県船橋市本町五丁目一八一五番地

住居 千葉県市川市市川町一丁目三一一三番地

レントゲン技師 片田浩平

昭和二年三月一一日生

右の者に対する失火被告事件について当裁判所は検察官三村喜久治出席の上審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、「被告人は昭和二六年四月より国立東京医科歯科大学医学部附属病院国府台分院(市川市国府台一丁目一番地)にレントゲン技術員として勤務し、同分院二号館階下レントゲン技術員室において執務していたところ、昭和二八年三月二八日午前九時頃より同室(広さ七坪)内西南側床板上に魔法コンロを置いて炭火を起し暖をとり或は湯を沸かし夕食を作るなどして午後九時頃帰宅したものであるが、元来右使用のコンロは既に長期間使用され底面の脚が磨滅し底部全体が平面の状態に近いためこれを長時間使用するときは底部に密着する床板の延焼を招き火災を惹起する危険のあることを優に予見し得るものであつたが、その使用を終えた場合には特にこの点を留意し火災を未然に防がなければならないのに被告人は前述の如く帰宅するに当り、コンロ底部の加熱状態をたしかめることや残火を完全消火する等前記危険を防止するに足りる処置をとらず、漫然コンロをその場に放置した過失により果して過熱せるコンロ底部よりその密着する床板の部分を延焼させ漸次拡大して遂に翌二九日午前二時頃人の現在する前記二号館(木造二階建瓦葺総建坪二五六坪階上に入院患者の病室あり階下は主として職員において使用その価格約一、六〇七、〇〇〇余円)を焼燬するにいたらしめたものである。」というのである。

一、よつて証拠によりこれを審究するに、右日時場所で右程度の火災があつたことは、司法警察員作成の実況見分調書三通および分院長作成に係る「焼失建物の調査について」と題する回答書によつて明らかである。

しかして、右の火災(以下本件火災と云う)が被告人の過失による出火であるか否かの点については被告人は当公判廷において終始これを否認しておるので以下検察官の主張立証について逐次検討を試みることとする。

二、さて検察官の本件火災が被告人の失火に基因する立証として挙げる要旨は(一)前示分院第二号館階下南側レントゲン技術員室が出火点である事実(二)レントゲン技術員室内において起訴状記載の如く被告人がコンロを使用していた事実(三)レントゲン技術員室内における出火地点の推定(四)出火前のレントゲン技術員室の状況(五)被告人使用のコンロよりの出火の可能性並びに火を失した事実(六)なお、その他の火災原因について漏電並びに放火の事実は推定できず、被告人の右過失以外に本件火災の原因は存在しないというにあり、右要旨は裏付けとなる証拠物、各証人の証言、鑑定の結果その他各証拠を綜合することによつて認定し得られるところであると主張する。

三、そこで本件火災の原因が果して検察官の主張するように被告人の火の不始末によるものであるかどうかを前述検察官の立証要旨を具体的に且つ細分して検討することになるが、被告人の失火の事実認定にあたつて右証拠のうち最も重点的に考察しなければならず、また、犯罪の成否に重要な影響を持つ要点は

(一)  本件火災の出火点は果してどこか

(二)  被告人使用のコンロより出火の可能性ありやにあると思料されるので右二点を中心としつつその他の証拠を綜合して考察することとする。

四、検察官は右分院二号館の火災の状況と同館階下南側のレントゲン技術員室が出火地点である事実の立証として

(一)  司法警察員作成の実況見分調書三通

(二)

(1)  榎本達夫の検察官に対する供述中

「レントゲン控室の処えは熱くて近付けないので外科医局へ消火壜を投げそれからポンプを持出したのであります。他の室からは未だ火が出ていませんでした」旨の供述

(2)  同人の公判廷における供述中

問 証人は「火事だ」と言われて最初火を見たのはどの辺でしたか

答 どの部屋から火が出ていたか分りません

問 証人は本件について検察庁で取調べを受けたとき「レントゲン控室と外科医局の二室から火が出てレントゲン控室の方が特にさかんでした、レントゲン控室の方は熱くて近付けないので」と述べているが只今の証言とは一寸異るではないか

答 事実は検察庁で申上げた通り相違ありません(レントゲン控室とはレントゲン技術員室或はレントゲン技師室とも言う)

(3)  吉村留吉の司法警察員に対する供述中

「レントゲン解剖室辺と思われる場所から焔が吹き出ておりましたので(中略)先程申した通りレントゲン、解剖室辺が燃えておつたと言うことだけしか言い得ません」

(4)  同人の公判廷における証言中

問 そのとき二号館のどこが燃えていたか

答 レントゲン控室(レントゲン技術員室)と解剖室の境だと思います

(5)  吉沢正一の司法警察員に対する供述中

「レントゲン技術員室のあたりより煙が出るのか薄赤を帯びた煙が廊下の天井をはうようにして拡がつておりました(中略)私の推察では火は恐らく二号館中央部より出たものではないかと思います従つてレントゲン技術員室あたりではなかつたでしようか」

(6)  同人の公判廷における証言中

問 証人の提出した顛末書によるとレントゲン技術員室及び外科医局からの煙で苦しかつたと言つて居るが

答 その通りです

問 大体レントゲン技術員室あたりから薄茶色を帯びた煙が出ていたと言うことになるね

答 はい

(7)  宮川清の公判廷における証言中

問 病室に向う途中二号館の室のどこかに異状はありませんでしたか

答 そのときレントゲン技術員室が相当明るかつたので

問 医局の方はどうであつたか

答 医局の方は反対に暗くありました

問 証人はどの辺から出たと思いますか

答 レントゲン技術員室だと思います

(三)  その他証人塚本孝一の公判廷における供述

塚本孝一、我妻隆作成の鑑定書および塚本孝一作成の鑑定書などを挙げておる。右各供述並びに証言はいずれも本件火災の早期目撃者による出火地点の鑑定を裏付けるものではあるが、その供述の内容を仔細に検討してみるに、出火地点がレントゲン技術員室だと特定的に且つ明確に供述しておるのは証人宮川清の公判廷における証言のみで吉沢証人はレントゲン技術員室辺りで、外科医局からかレントゲン技術員室からか煙の出所について明確さを欠いでいる。吉村証人の証言はレントゲン技術員室と解剖室の境辺だと云つており、榎本達夫は検察官に対する供述中「レントゲン室には熱くて近付けないで外科医局へ消火壜を投げた」と供述しておりながら公判廷における証言では「どの部屋から火が出ているか分らない」と前言を飜えし検察官から証言の異る旨を追及されて「検察庁で申上げた通り相違ありません」と更に供述を変更するなどその供述、証言の信憑性はたやすく措信することができない。

更に当時警備員であつた証人木村佐吉の公判定における証言中

問 証人が火事の警鐘を鳴らし乍ら二号館をみたときレントゲン技術員室は燃えてなかつたのですか

答 燃えてなかつたように思いますその後吉村事務官に言われて変電室の電源を切りに行つたときも同様燃えてなかつたように思います

と供述し、以上各供述を綜合検討するにおいて、検察官主張の如く本件火災の出火地点をレントゲン技術員室なりと特定的に結論することには確信をもち且つ何等疑念なく断定することは困難であるからこの点に関する検察官の主張は採用できない。

五、次に、レントゲン技術員室内において被告人がコンロを使用した事実は

(一)  藤田とよの昭和二九年三月四日付検察官に対する供述付調書

(二)  同人の昭和三一年三月九日付公判廷における供述調書

(三)  被告人の司法警察員に対する供述調書二通

(四)  被告人の検察官に対する供述調書四通

を綜合してこれを認め得られるところである。しかし被告人の使用のコンロより果して出火の可能性ありや否やは前述したように本件被告人の失火の事実認定について重要な極め手となるものと思料する。

しかして、この可能性については、塚本孝一、我妻隆、浜田稔、嘉藤市太郎等四名による鑑定書が提出されておるのでその各鑑定の結果を綜合考察しつつ出火の可能性について判断する。

まず、各鑑定の結論的結果を要約してみると

(1)  昭和二九年一二月一三日付鑑定人塚本孝一(消防技師兼司令長)の鑑定書によると

「コンロを木板張りの床上に直接おいて、数時間以上連続使用する場合には、床の木板を焦し、出火する可能性あるものと認む」との結論である。

(2)  昭和三一年八月三一日付鑑定人浜田稔(東京大学工学部建築学科防火研究室)の鑑定書によれば

「このコンロは底を通して熱伝導で直接床板に着火することは考えられない。しかも、もしコンロ使用中又は移動に際し灰をこぼすようなことがあれば出火の可能性はかなり高いと思われる。要するに木の床板上にコンロを直接おいてこれを常時使用することは火災に対する注意が極めて不充分であつたことは否定できないが、さりとて灰をこぼさなければ出火にならないのであるから今回の出火がこの点に原因したか否かを確定することはかなり困難なように思う。」

(3)  昭和三五年六月二〇日付鑑定人嘉藤市次郎(通商産業技官)の鑑定書によれば

(イ) 鑑定のコンロにおいて、二つに割れた網がほぼ元の完全な形に組合されて、コンロ内の正常な位置にあり、木炭を一時間に二〇〇~三〇〇グラムの割合で燃焼すると考えた場合「このように木炭をコンロで燃焼すると(中略)鑑定のコンロの下に置かれた杉板から自然発火する可能性はないとはいい難いが、その可能性は甚だ小さいものと考えられる。」

(ロ) 鑑定のコンロにおいて、二つに割れた網が不完全に組合はされたり、或はその半分だけがコンロの正常な位置にあるようにして、木炭を一時間に二〇〇~三〇〇グラムの割合で燃焼すると考えた場合

「二つに割れた網を元の完全に近い状態に組合せて用いた場合よりも(中略)自然発火の可能性は概して大であると考えられる。ただし、(中略)鑑定のコンロを使用した後でそのコンロにコツプ一杯の水をかけ、鑑定のコンロを使用した位置から約一尺移動した場合については、コンロ内の“おき”を完全に消火できれば(中略)自然発火の可能性は普通には殆んどないであろうと考えられる。

また、もし一度消火された木炭が再び“おき”になつたとしてもその“おき”の量が約二〇〇グラム以下であれば、時間の経過と共に“おき”は燃えて消耗するので(中略)鑑定のコンロの直下に置かれた杉板が自然発火する可能性は極めて小さいものと考えられる。」と

以上各鑑定の結果を更に要約すると塚本鑑定人は出火の可能性について肯定され、浜田鑑定人は否定される(但し灰が蓋口からこぼれた場合は可能性は高いとされるがかかる場合は本件の訴因でない。)

しかして、嘉藤鑑定人はコンロの網が二つに割れた場合元の完全な形に組合された場合は可能性は甚だ小さい。不完全に組合されたときは自然発火の可能性は概して大である。但しコンロを使用した後コンロにコツプ一杯の水をかけて一尺移動した場合“おき”が再燃しても量が約二〇〇グラム以下であれば自然発火する可能性は極めて小さい。という結果になる。

検察官は塚本、嘉藤両鑑定人の鑑定の結果より出火の可能性を肯定しておるのであるが、浜田鑑定人の鑑定の結果と嘉藤鑑定人の二つに割れた網の完全な組合せと不完全な組合せの場合およびコンロに水をかけた場合の出火の可能性に対する鑑定の結果をかれこれ考え合せるとき右述のような具体的状態において果して窮極的かつ、ゆるぎなき確信を以つて本件出火の可能性を認定し得らるるや否や到底疑なきを得ないところである。

六、次に検察官はレントゲン技術員室内における出火地点について司法警察員作成の第一回実況見分調書によつて、その焼燬の程度がレントゲン技術員室が強く、同所より順次これが周囲に延焼したものと推定されているのである。

そこで、同調書を検討するに、土台の焼け具合、柱の焼け残り、根太、雑誌の残存などの事実よりすれば一応レントゲン技術員室より最初に出火した推定もあるいは可能であろう、しかし、各室のうち燃焼度の最も強かつたところを発火点なりと認定することは危険ではあるまいか。けだし、発火点より遅れて燃焼した場所でも可燃性物件が多く存置されている場合は発火点より焼燬程度が大である場合も想定し得られるからである。

七、更に、その他の火災原因について考察してみよう。

本件火災が(一)漏電でないことは鑑定人塚本孝一、我妻隆作成の鑑定書により認められ(二)放火でないことは「二号館は鍵が全部かかつていた」旨の榎本達夫の証言並びに被告人の「レントゲン技術員室は被告人が退室するにあたり鍵をかけ而もその鍵は番号入りであり、たやすく合鍵がみつからない」旨の検察官に対する供述により一応首肯されるところである。(三)ガスによる出火でなかつたことは木村証人の「ガスを止めるのは午後九時です。それ以後は元を切つてしまうのですから、住宅地でも使えません」との供述によつて認められる。以上のように本件火災の出火原因が漏電でもなく、放火でもなく、ガスでもないとしたなれば当日の出火を予想される火気は被告人使用のコンロ以外に考えられないのではあるまいかとの推定は検察官の主張されるところであるが、さて、本件火災の出火原因が果して右に挙げた三つの原因以外に絶無なりと確信を以つて断定し得られるかどうか諸般の事情を考え合せるときこれまた疑なきを得ない。

八、なお、被告人のコンロ使用後の跡始末の状況について被告人の火気の取扱が粗末であつたこと、ふちや網の割れた而も口蓋のないコンロを使用した事実、コンロを床板上に直接置いて使用したこと、コンロの火が強過ぎて火おこしに一時コンロの火をとりそのまましばらく床の上においたため床を焦がしたことなどは藤田とよの検察官に対する供述により認められ、また、コンロの残火を消すのに火のあるコンロに直接水を注ぐ(被告人の自供)などは消火方法としては不完全且つ奇怪至極の処置であると検察官は極言しているところであるが、まさに、そのとおりであつてかかる方法は通常人として考える常識的水準を逸脱している感がある。しかしながら、かかる被告人の火気に対する粗末な取扱振りないし、常識でない消火法を何等意に解しないのは被告人の生来的な性格によるものであつて、被告人の火気に対する取扱について慎重を欠いだ性格のほどは窺知し得られるところであるが、さて、そうかと云つて、かかる非常識な処置をコンロの使用による出火原因に直ちに結びつけるには幾分の飛躍がある。すなわち、コンロよりの出火の可能性は被告人の性格論を離れて具体的状況下における厳密な科学的考察(鑑定)による推理の過程を経て判断さるべきである。

なお、以上の外、検察官の出火地点の推定について焼跡に流れる波型のいぶり跡の存在、焼跡より発見されたコンロの位置等の証拠は検討するまでもなく叙上説示のとおり本件火災の出火点と被告人使用のコンロより出火の可能性ありやの重点を中心とした以上諸証拠に対する検討と考察により且つ諸般の事情を考え合せ被告人が本件起訴状記載のように被告人のコンロ使用後の残火の不始末による失火であると断定するには未だその証拠は不充分であるといわなければならない。してみると本件公訴事実は結局犯罪の証明十分でないということに帰するから刑事訴訟法第三三六条に則り被告人は無罪の言渡をなすべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 千田厚)

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